カッコウの飛来

カッコウ、カッコウ!

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 カッコウの鳴き声は、チベットの高原に、夏の到来を知らせる。赤茶けた大地を、豊かな緑が覆い、花は咲き乱れ、小川に水はほとばしる。カッコウの声を聞きつけた人々は、その声の主を求めて、山に入っていく。まるでそこから、喜びにみちた生命がわきあがっていて、少しでもそこに近づくことで、世界の源泉に触れようとでもするかのように。カッコウほど、チベットの人々に、強い印象を与えてきた鳥はいない。

  いまから千年以上も前に、ツァン地方のニェモの小さな村に生まれたヴァイローチャナも、少年の頃から、夏の到来を告げるこのカッコウの声を聞いて、育った。この少年はのちにチソンデツェン王に見いだされ、翻訳官としての教育を受け、仏教を学ぶためにインドに派遣されることになる。彼は北インドの白壇生い茂る森の中で、中国出身の大思想家シュリー・センハに出会い、その弟子となる。

 シュリー・センハは彼に「ゾクチェン」の教えを与えた。しかし、この教えは当時門外不出の秘密の教えとして、外国人に伝えることを、王法で禁じられていたのだった。シュリー・センハはそれを、チベットから訪れたこの優れた若者に伝えたいと思ったが、人前でそれをおこなえば、危険が身に振りかかってくることは、目に見えていた。そこで、一計を案じた彼は、昼間はヴァイローチャナがほかのインドの弟子たちと一緒に、スートラ(顕教の学問)を学ぶようにさせ、深夜人が寝静まった頃あいを見計らって、自分の寝室を訪れて、こっそりと「ゾクチェン」を学ぶことができるように、取り計らってくれたのである。

 ヴァイローチャナは、シュリー・センハからたっぷりと、この常識を越えた驚異の教えを学びとった。そして、とうとうチベットへ戻る日がやって来た。この日が近づくと、師は彼をこっそりと呼んで、数枚の白い絹布を手渡した。ヴァイローチャナが見ると、それは何も書かれていない、ただの真っ白な絹布にすぎないように見えたが、シュリー・センハがそのうちの一枚を灯明の火であぶると、そこには茶色くくっきりとした文字が、浮かび上がってきたのである。

 そこには、シュリー・センハが教えてきた「ゾクチェン」の教えの、まさにエッセンスを絞り出した教えの核心が、短い詩の形で表現されていた。大部の書物を持って、国外へ脱出することが不可能であることを見て取った師は、弟子がこっそりと懐に忍ばせて、教えのエッセンスなりともチベットへ持ち帰ることができるようにと、山羊の白い乳で「金剛歌」を書きつけ、国に無事戻ったところで、それを誰にも知られることなく取り出せることができるようにと、みごとなトリックを案出してくれたのだった。

 こうして無事に、ヴァイローチャナは「ゾクチェン」の教えのエッセンスを、チベットにもたらすことに成功したのである。彼はさっそく、持ち帰ったいくつかの短い詩の翻訳に取りかかった。そのうちのひとつ、六つの詩句でできた「金剛歌」に、ヴァイローチャナは『リクパイ・クジュク』というタイトルをつけた。文字通りに訳せば「リクパのカッコウ」、それを命名したときのヴァイローチャナの気持ちを思いやって、意訳すれば、「初夏を告げるカッコウのさえずりのように、世界に存在の瞬きをほとばしらせるリクパの躍動」とでも言った意味だ。

 このタイトルには、チベット人のみずみずしい生活の感情が、こめられている。夏の到来を迎える高原の民の喜びの感情と、自分の心のうちに、裸の状態の純粋な心性があらわになるとき、人が体験する強烈な歓喜と悦楽の感覚とが、このタイトルの中では、ひとつに結びあっている。生活の感情と、リアリティの真実を見届けようとする魂の探究とを、いつも自分の中でひとつに結合していこうとする、チベット人のこうした教えに対する態度が、ここにはすでにはっきりと表明されている。そして、この性格は、今にいたるまで変わらない。そこでは、具体的で日常的な生活と魂の探究とは、いつも一体でなければならない、と考えられてきたのである。

 『リクパイ・クジュク』は、こんな詩だ。
ナツォランシン・ミニーキャン        sna tsogs rang bzhin myi gnyis kyang
チャシェニードゥ・トゥタンデル       cha shas nyid du spros dang bral
ジシンパシェ・ミトクキャン          ji bzhin ba zhes myi rtog kyang
ナンバルナンゼ・クンツサン         rnam par snang mdzad kun tu bzang
ジンペ・ツォルウェネバンテ         zin pas rtsol bai nad spangs te
ルンキネベ・シャクパイン          lhun gyis gnas pas bzhag pa yin

 試みに翻訳してみると、こうなる。

 世界の多様性は、その本性において二元性を越えたものでありながらも、
 (個体性をもって現象する)その個体性そのものは、心がつくりあげる概念の構成からは自由である。
 世界に「まさにかくのごときもの」と確定できるようなものを思考することはできないが、
 かくのごとくに(心によってつくりだされ)まざまざと現れた多様な現象はそれ自身においては(善悪の判断を越えた)絶対的な善なのだ。
 存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を絶って、
 あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまることが、私の教え。


 ここには、のちに「ゾクチェン・セムデ」と呼ばれることになるゾクチェンの教えのエッセンスが、すでに完璧なかたちで表現されきっている。ゾクチェンは個体性というものを、否定したりしない。それを空のうちに溶解させようとする、密教(タントリズム)の考えに、それはまっこうから反対する。この世界が、無数の個体性をもたものでできていることそれ自身が、存在に内蔵されているリクパの跳躍力をしめしているからだ。

 空はたんに空であるのではない。空は純粋な跳躍の力を内蔵している(ゾクチェンの用語で言えば「トン・サル・イェルメー」の状態)。そのことを、はっきりと直観できたとき、世界はあるがままにして、すでに完成していることが、見えてくる。そうなれば、あらゆる知的な努力も、善を積もうとする努力も、裸のリアリティを汚染するものであることも、わかってくる。存在は、それ事態で、すでにゾクチェン(偉大な完成)の状態にある。

 チベットにはじめてもたらされた、このような教えをみごとに表現した、この短い詩句に、ヴァイローチャナは、夏と生命と喜びの到来を告げる、カッコウの声を聞いたのである。ときに九世紀の半ばすぎ。ゾクチェンの教えは、チベットの高原に、こうしてはじめて、カッコウとして飛来したのだ。

(中沢新一)

 『リクパイ・クジュク(リクパのカッコウ)』について この短いがとても重要なテキストは、ヴァイローチャナの弟子たちによって編纂された巨大な『クンチェ・ギェルポ(存在をつき動かす純動の王)』の中の、第31章に収められている。このテキストが、きわめて古い来歴を持つ、という伝承はあったけれど、それを立証する証拠はなかった。

 ところが、北東チベットのアムドと中国との境目あたりにあたる敦煌の洞窟から発見された、おびただしい文献の中に、このテキストが発見されたことによって、一躍その重要性が脚光を浴びるようになったものである。

ここでとりあげた「リクパイ・クジュク」については、ゾクチェン思想の展開【3】でさらなる解説がなされています。ご参照ください。

Posted by staff at October 19, 2004 02:32 PM