ゾクチェン思想の展開3 『リクパィ・クジュク註釈』

リクパィ・クジュク
解説

 シルクロードの東西交渉の要衝である沙州敦煌。その東南約30 キロのところにある鳴沙山の東の麓には有名な莫高窟千仏洞がある。光緒 26 年(1900)5 月 26 日、石窟を守っていた王円録は、すっかり岩が崩れ砂に埋もれようとしていた石窟の修復作業をしているさなかに、壁の裂け目から煙が吸い込まれてゆくを見て、壁の向こう側の小さな部屋の存在に気づく。その中には11世紀の初頭に封印されて以来、誰に知られることもなく、砂漠の乾燥した環境の中で封蔵された時の状態と何ら変わることのないまま、4万を数えるという古代文書が眠っていた。古代文書を当時の状態のまま手にすることのできる、まさに画期的な発見であった。

 1907年の3月、5月、9月に千仏洞を訪れたハンガリー生まれの考古学者オーレル・スタイン(Sir M.A.Stein)は、王円録に大型馬蹄銀10個たらずをわたして、合わせて古文書24箱(765文書)・美術雑品5箱を手に入れ、イギリスに持ち帰った。スタインが将来したそれらの「敦煌文書」をド・ラ・ヴァレ・プサン(Louis de La Vallee Poussin)が目録にまとめた。その中に第647番写本と

してリストされているものが、今回とりあげる『リクパィ・クジュク(知恵のカッコウ)』である。

 『リクパィ・クジュク』がいつできあがったか明らかではないが、敦煌にその写本が見つかったことは大きな手がかりを与えてくれる。吐蕃(チベット)は 786年に沙州敦煌を占領、848年に土豪であった張議潮に奪還されるまで敦煌を支配した経緯もあって、敦煌とは密接な関係を持っていた。チベット語文献に限っていえば、この8世紀後半から敦煌に活発に集められることになったのであろうし、それは11世紀の初めまで続いたのであるが、チベット語敦煌文書の収集がもっとも盛んとなったのが敦煌占領期であることは疑いを入れない。だから『リクパィ・クジュク』は8世紀あるいは9世紀には成立していた可能性が高いのである。

 伝承によれば、チベット人初の出家僧「試みの6人」の1人であるヴァイローチャナが、ダヘナ(もしくはウッディヤーナ)の地で、シュリーシンハからゾクチェンという無努力の教えを聞いて、『リクパィ・クジュク』などのセムデ(心部)の教えを学びとり、チベットにはじめてその教えをもたらした。『リクパィ・クジュク』はセムデの18論書の筆頭に数えられ、セムデの総合論書ともいうべき『クンチェ・ギェルポ』にはその第31章として収められている。

 今回とりあげるこの敦煌写本は、『クンチェ・ギェルポ』のものとは異なり、本文の六行詩にくわえ本文に対する註釈がほどこされている。註釈はまず、説者が金剛薩捶ではなく、クンツサンポであることを強調し、その理由を説明してみせる。これが決定的に重要である。ゾクチェン思想が密教思想との異質性を強烈に意識していたことを明らかにするからである。註釈は徹頭徹尾このラインにしたがって展開してゆく。ここから、ゾクチェン思想の登場はまったく新しいタイプの思想があらわれでたことを意味することがよくわかるのである。

 この註釈のおかげで、私たちは『リクパィ・クジュク』の教えに近づけるようになる。この註釈をほどこした註釈者の理解の水準がきわめて高いことは明らかであり、当時すでに『リクパィ・クジュク』の教えが完成していたことにくわえて、それをよく理解する人々の存在を証明することになったのである。『リクパィ・クジュク』によって、私たちは、ゾクチェン・セムデの思想が完全に現れ出ようとする、まさにその瞬間に立ち会うことができるのである。

Posted by staff at October 19, 2004 03:53 PM