とてつもなく古いもの

 いつだったか BBC の作ったテレビのドキュメンタリーで、旧ソ連の言語学者のおこなっていた「ユーラシア祖語」の研究が紹介されていたが、そのときこの言語学者が再現してみせた旧石器時代のユーラシア大陸人のしゃべっていたとおぼしき言語の音を聞いたとたん、私は深い衝撃を受けて、しばらくものもしゃべれなかった。ロシア人の天才的な言語学者は、ユーラシア大陸で現在もつかわれているたくさんの言語の中から、いくつかの基本的な生活単語をひろいだして、その祖型を再構成するという、気の遠くなるような作業のすえに、ついに新石器革命によって人口の爆発的増大がおこり、言語がさまざまな方向に分裂的な発達をはじめる以前に語られていたと推理される、「ユーラシア祖語」を再構成してみせたのである。

 コンピューターによって合成されたそのことばは、異様な響きをもって、私の大脳組織を刺激した。それは、私たちが知っているどの言語の音とも共通していない、物質的な深みからほとばしり出てくるような音だった。「見つける」「走る」「火が燃える」・・・旧石器時代のユーラシア大陸のどこかで、動物を追いながら生活していた人々が発していたことが想像されるこれらのことばは、私たちがすでにその記憶も失ってしまった、私たちのものとはまったく異質な、世界体験のありさまを伝えようとしていた。大脳組織のなかで、今日では縮退してしまった活動野が、いきいきとして世界に向かって自分を開いていた頃である。そこでは、世界は私たちが知っているものとは違って感じられていた。風も、水も、火も、土も、感覚野のいまのものとは異なる通路を通して、人間に働きかけをおこなっていた。その「とてつもなく古いもの」の感覚が、再現されたその「ユーラシア祖語」には、息づいていたのだ。

 これとよく似た「とてつもなく古いもの」の感覚を、私たちはときどき思いがけないもののなかに発見して、息を飲む体験をすることがある。私にとって、とても印象的なそういう体験は、民話の「シンデレラ」についての研究を読んでいたときにも、やってきたことがある。シンデレラの物語は、誰でも知っている。ウォルト・ディズニーの漫画映画にもなったし、それをしゃれた現代のお話につくりかえた映画やミュージカルにもことかかないありさまだ。ところが、この物語は、おそらく今日に伝えられている人類の「物語」のうちの最古の要素、たぶん旧石器時代の人々が重要な神話素と考えていた主題のいくつかを、ほとんど形を変えずに保存しているという、きわめて貴重なものなのである。それはこういうことである。

 シンデレラ(Cinderella)という英語も、サンドリオン(Cenderillon)というフランス語も、どちらも灰や煤に関係している。いつもかまどの近くにいて、からだじゅう灰まみれ、煤まみれになっている少女という意味である。

 この少女を有名にしたシャルル・ペローのお話では、この少女のお母さんは早くに亡くなって、新しくやってきた継母と彼女の連れ子のふたりの娘たちに、まるで使用人のようにこき使われて、台所のすみっこで仕事ばかりさせられ、すっかり煤や灰で汚れたかっこうをしていたので、こんな名前で呼ばれていたのだ、という説明がされている。しかしそれは、こういうお話につきものの「合理化」というやつで、ほんとうのことを言うと、この少女は、そんな説明ではとうていおさまりがつかないほどに深淵な場所に、つながりを持っている。

 世界中に伝えられてきた神話や民話を見てみると、「灰まみれ」という名前をあたえられたり、いつもかまどのそばにいて料理の火の番をしている少女や少年の話が、たくさん出てくる。こういう「灰まみれ」たちは、とても不幸な境遇で生きているのだけれども、そのうちにそういう彼女たちにだけ親切をしめしてくれる、不思議な動物や魚や妖精と親しくなる。動物や妖精は、彼女にいろいろな情報や小さな宝物をあたえて、だんだん彼女はきわだって存在になってくる。そして、最後にはほんとうは目もさめるほどに美しい、彼女の真実の姿をみんなのまえにあきらかにして、彼女にこの世での大きな幸福をあたえてくれるのだ。

 継母にいじめられたせいでもなんでもいいのだけれど、とにかくこの少女は灰や煤をかぶっているせいで、顔がよく見えなくなっているのである。神話や民話にこういう存在が出てくるときには、「人間の世界にいるのに他の人からはよく見えない存在」というのを表現しているのだ、と考えると、話が伝えようとしている深い意味が、よく見えてくるようになる。つまり、シンデレラとは、他人からは見えない存在なのだ。そのせいで、彼女は普通の人たちには理解できない動物や魚や植物と、話をすることができるし、普通の人には見えない妖精や魔女とも、心を通わせることができる。人間の世界と妖精や動植物の世界との閾(しきい)の上に立って、ふたつの世界を自由に行き来できる力を持った若い未婚の女性、それが灰をかぶった少女であるシンデレラの本当の姿なのだ。

 シンデレラはいつもかまどのそばにいる。かまどは昔の人たちにとっては、人の世界と大地の奥底にひろがっている世界との閾の場所であるし、大地の底とは底無しの暗い死の領域へつながっている。彼女はいつもそういう世界に触れているおかげで、自分の内部にはとてつもない力と美しさを秘めている。しかし、慎み深い彼女は、灰や煤で自分のほんとうの姿を隠したまま、人間たちの視線の前に、自分をさらけようとはしない。シンデレラは大地母神の娘であり、しかも処女として、男たちの視線からは隠され、見えない存在として、不思議な美しさを生きている神話の少女なのだ。

 こういう民話には、じつはとてつもなく古い人類の記憶がそのまま保存されているのである。生きている者の世界と死の世界をつなぎ、動物や魚や植物たちの世界との通路に立っている者といったら、古い時代だったらまずはシャーマンと呼ばれるような、特別の能力をもった人たちのことが連想されるが、じっさいシンデレラという少女のしめす特徴のいくつかは、まぎれもなく彼女がシャーマンの末裔でもあることを、物語っているのである。シンデレラは十二時が来ると、魔法が解けてしまうので、大急ぎで人々の視線の前から、姿を消さなくてはならない。そこであわてた彼女は、階段のところで片方の靴を脱ぎ捨てたまま、どこへともなく走り去る。このことが、彼女をシャーマンに近づけるのである。

 脱げた片方の靴をめぐるエピソードは、シンデレラの物語のなかでも、とりわけ私たちの心をそそる部分だ。なにかそこにはおそろしく深淵な意味が隠されているのではないかという予感がする。シンデレラはこのとき、左右の足の長さが不均衡になって、まるで片足の存在のようになって、すばやく人々の前から姿を消してしまう。最近の歴史人類学の研究によると、それこそまさしく古いヨーロッパのシャーマンの特徴をしめすものだというのである。

 シャーマンは片足をあげたまま、太鼓を打ち続ける。あるいは一本足の姿勢のまま旋回する舞踏を続けているうちに、トランス状態におちいる。シャーマンたちはわざと自分を不均衡な状態に置き続けることによって、普通の意識の状態を超越していく能力を獲得するのだけれど、大地母の娘にして妖精と動植物の友であるこの処女神も、シャーマンと同じようにして、王子様をはじめもろもろの普通の人間たちの前から、またたくまに片足で逃げ去ってしまう。あとに残されたのは、片方の靴ばかり。しかもこれを履ける者は、めったなことではみつからない。それもそのはずだ。灰をかぶってかまどのそばで仕事をさせられていたあの少女は、古代の宗教の記憶もあざやかな、高貴な神秘の華だったのだ。 ここにあるのが、例の「とてつもなく古いもの」の感覚なのである。階段に脱ぎ落とされた片方の靴、それは人類のもっとも古い宗教形態のひとつであるシャーマニズム(私たちが知っている新しいシャーマニズムに対して、これを古シャーマニズムとでも呼ぼう)の思考法に、直接の結びつきを持っている。そこに大地の底に燃え盛る火と地上の世界を媒介するかまどの火の主題や、このかまどを通って上空に立ちのぼっていく煙を通して地上と結びあう天界の主題が結びついて、ひとつのダイナミックな宇宙観が動いていたのである。そういう旧石器時代以来の「とてつもなく古いもの」の感覚が、なにげない顔をして、現代の生活のなかに生き続けていることに、驚かない人がいるだろうか。

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Posted by staff at October 31, 2007 06:37 AM