講演「チベットの大地」 (1)

中沢新一によるチベット文化研究会 '99年新年会特別講演会 

 さきほどのペマさんの紹介にもありましたが、はじめてペマさんにお会いしたときのことを、ぼくはまだ昨日のことのようによく覚えています。1979年のお正月のころでした。ぼくがはじめて五反田にあったチベット文化研究所をたずねていくと、研究所のみなさんが新年会の準備をしているところでした。そのころはペマさんは、まだとてもスマートで(笑)、いまよりもはるかに精悍な、若者の印象を受けました。ペマさんのとなりには、そのころ東洋文庫にいらっしゃった、ゲシェ・トゥプテン師が座って、ぼくを待っていてくださったのです。

 ぼくは見ず知らずのペマさんに手紙を出して、自分はチベットに行ってお坊さんになりたい、お坊さんになって仏教の勉強をしたいんだけれども、どこかよいお寺に紹介状を書いてくれませんか、とお願いしてありました。ペマさんはすぐにぼくに返事をくれました。ぼくはそのころまだ、チベットのいろいろなことを学ぶには、日本にどういう機関や機会があるのか、うかつにもほとんど知らなかったものですから、チベット文化研究所といものが存在して、しかも仏教を学びたいというぼくの願いにも、真摯に答えてくれたということに、ひどく感激していました。

 自分の人生で、どうしてもチベット仏教を勉強しなきゃいけない、ということだけが、わかっていたことでした。ぼくはそのころ知的なことの限界をひしひしと感じていて、もっとなんというか自分の全存在を巻き込んだような、実践的な学問にあこがれていましたから、瞑想の体験を学問の中心にすえているというニンマ派というところで勉強したい、と思っていました。まあ、そういうと立派そうに聞こえますが、その実はニンマ派についてもそのこと以外にはほとんど何も知らなかったし、チベット仏教の体系についても、本に書かれている程度の、わずかなことしか知ってはいませんでした。もっとひどいことにはチベット語の知識すら、ほとんどなかったのでした。

 これじゃああんまりだと思って、でかける前に日本で可能なかぎりチベットに関係している人に会って話を聞こうかな、っていろいろな人に会いました。ニンマ派で瞑想修行したいのですがというと、たいがいの「関係者」の方々は、驚いた表情を見せたり、不愉快そうにするのが意外でした。なかでも、浜松まで出かけて会ったゲールク派のお坊さんなどは、ぼくが「ニンマ派で瞑想の修行をしたいんです」などと申しますと、じつに率直に、「そんなことで人生を無駄にしてはいけません」と、こんこんと諭すのでした。「それよりも、ゲールク派でちゃんと勉強なさったほうがいいですよ。ニンマ派のつまらない教えなどで、人生を無駄にしてはいけません」とまでおっしゃるのです(笑)。そのときはさすがに、ぼくもちょっと心配になりましたね。

 そしてペマさんを訪ねて行ったんです。自己紹介の手紙でペマさんにもやっぱり、ニンマ派で瞑想の修行をしたい、ついてはニンマ派のラマを紹介していただけないか、とだめもとで切り出したわけですが、意外なことに今度はペマさん大喜びなんです。それもそのはずで、ペマさんの家がニンマ派に関係が深く、ようやく日本にも理解者が出てきたかと、喜んでくださって、さっそく紹介状を書いていただくことになりました。ペマさんは「仏教の本格的な修行はとても難しいですよ、大変ですよ」としきりとぼくをおどかしました。でも、そのときはぼくは世俗のことはいっさい捨ててお坊さんになるんだと決意も硬かったものですから、その毅然たる態度を見たゲシェラも「この人、いいんじゃないか」って言うんで、その場ですらすらと紹介状を書いていただくことになりました。ドゥンジョン・リンポチェとトゥルシク・リンポチェと、それからケツン・サンポ・リンポチェとに宛てて三通、ゲシェラは心をこめていい文章を書いてくださいました。もっともそのときは何が書いてあるかまったく読めなかったんですけれども、トゥルシク・リンポチェの紹介状の文は、ついに手渡さずのままでしたから、いまも手元にとってありますが、それを読んでみますと、やけに誉めまくってあって、まったく冷汗ものという感じで・・・

 さて、その三通の紹介状だけをふところに、ネパールに出かけました。さきほども申しましたように、あきれるくらい何も知らなかったものですから、カトマンズへ着いても、さてどうしたものか。タメルに豪勢な邸宅を構えていたドゥンジョン・リンポチェのお宅はすぐにわかりましたが、あいにくと三ヶ月間のツァムに入ってしまわれて、お会いすることは当分できないと言われました。それにトゥルシク・リンポチェはソロクンブ地方のお寺にお住まいで、着いたばかりでいきなりエヴェレストの中腹にあるソロクンブまで行く勇気がわかなかったものですから、カトマンズでいつまでもぐずぐずしておりました。ゲシェラたちには勇壮なことを言っててきたのですが、内心軟弱な趣味がなかなか抜けず、けっこうカトマンズという町が気に入ってしまったのですね。その当時のカトマンズはまだヒッピー文化の余韻も強烈で、ちょっとした喫茶店に入っても、ムッとするようなマリファナの匂いがただよっている、そんな時代でした。「こういうことは出家したらやめればいいんだから」と自分にいいわけして、ぼくはそういうカトマンズの自堕落な生活を、けっこう楽しみましたね(笑)。

 もうそろそろ出家どきか、というころ、ぼくはケツン・サンポ先生という方を訪ねてみることにしました。ペマさんはぼくに「ケツン・リンポチェ」という名前を、そのあたりのチベット人に言えば誰でも知っているから、すぐにたどり着けますよと請け合ってくれました。ところがカトマンズで「ケツン・リンポチェのお住まいは?」と聞いても、誰も知らないんですね(笑)。みんなは最初「ケツン・リンポチェ…」と聞くと、「ああ、ケンツェー・リンポチェね」と言ってすぐにわかって、その方は、いまはダージリンにいるというのです。でも話をよく聞いてみると、それはどうやらディルゴ・ケンツェーという別の偉いラマのことらしく、どうも話が違うということに、気がつきました。

 途方にくれておりましたところ、プンゾォ・ドルジェというドゥンジョン・リンポチェの秘書をやっているというラマ僧と、タメルで偶然会ったのです。プンゾォさんが「おまえは何をしたいんだ」ってたずねますから、「ニンマ派の勉強をしたいんです」と言いますと、とても喜んでくれて、「それはけっこう。ドゥンジョン・リンポチェのところで勉強しなさい」とおっしゃる。「でも、ドゥンジョン・リンポチェにはいまお会いできないのでしょう」「うむ、それもそうだ」と考え込んでいるところへすかさず、「ケツン・リンポチェのお宅はどこですか」と言うと、「ああ、その手がありましたね。ケツン先生はボードナートにお住いです」と言って、ぼくに地図を書いてくれました。そしてその足でぼくは自転車を借りて、ボードナートに出かけたのでした。

 このあたりの光景はもう二十年近くもたっていますけども、本当に一部始終をよく覚えています。不思議なものですね、人間の記憶というのは。そのとき、カトマンズで自転車を借りて、ボードナートにたどり着くまでの道端の光景を、実にことこまかなところまで、たとえばどこどこに鶏がいたこととか、ぼくの顔をじっと見つめた山羊の目とか、実によく覚えているのです。   

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Posted by staff at October 31, 2004 06:43 AM