テルマ -カオスからの創造- (1)

 三十歳を越えた頃から、ロンチェンパの思想は燃え上がるような創造の時代に突入していった。その様子は「カンドゥ・ヤンティク」体系の歴史をあつかった章に、生き生きと記録されている。

 幼い頃からの優れた理解の能力を示した彼は、多くの先生たちのもとで、チベットに伝えられた仏教的文化のあらゆる側面を、まんべんなく学び取り、密教についても、古い教えの伝統(ニンマパ)と新しい教えの伝統(サルマパ)の両方について、広く深い理解を獲得していた。そういうロンチェンパがもっとも心を惹かれたのが、古い伝統の伝えるゾクチェンの教えだった。若い情熱のすべてをそそいでこの教えを学ぼうとした彼は、ついにリクジン・クマララージャと出会うことによって、その願望をかなえたのである。リクジン・クマララージャはヴィマラミトラ伝来の「ヴィマ・ニンティク」によって、ゾクチェンの真理を説いていた。

 クマララージャはサムエの北方に広がるチンプ渓谷で、教えを説いていた。この渓谷にはたくさんの奇岩が露出して、そこここに修行に最適な洞窟を形成している。ここを発見したのは、もちろん仏教徒以前の古代チベットの人々だっただろうけれど、パドマサンバヴァは平地のサムエ寺ではなく、この渓谷の洞窟を住まいとした。そのために、チソンデツェン王でさえも、彼から教えを受けたり、相談ごとがあるときには、数時間の登山をして、ここまでやってこなければならなかったのである。この渓谷はその意味でもパドマサンバヴァの思い出の土地であり、彼が伝えた教え(ニンマの教え)の伝統にしたがっている人々にとっては、まことに神聖な土地だったのである。

 しかしクマララージャが、この渓谷を活躍の場所としていたのには、また別の理由もあった。ヴィマラミトラという人はおもにサムエ寺を活躍の中心としていたらしいが、彼がチベットに伝えたゾクチェンであるヴィマ・ニンティクは、まずティンゲズィン・サンポによってウルのシャ寺に伝えられたのち、埋蔵され(ティンゲズィン・サンポ自身ランダルマによる破仏の影響を直接にこうむった)、のちに十一世紀の頃チェツンなどによってあいついで発見されたが、そのさいチンプ渓谷からもいくつかの重要な発見がもたらされた。そのためにヴィマ・ニンティクを学ぼうとする人々にとっても、この渓谷は特別の霊感の与えられる土地として、重要視されたのである。

 クマララージャは一カ所に定住することを嫌った。これはガラップ・ドルジェ以来のゾクチェンの伝統である。ゾクチェンは絶対弁証法の立場に立って、いっさいの空間性への帰属を否定しさろうとした。どんなに気持ちのよい土地であっても、そこに長く滞在しては、体験が空間に包摂されてしまうような状況が生まれる。そこで、彼は一つの場所に滞在することわずか数日、ときには数時間にして、また別の場所に移動していくのを習慣とした。そういうときは、教えを聞こうという弟子たちも、先生が場所を移するらしいと聞くと、ただちに荷物をまとめて、別の場所に移っていかなければならない。若いロンチェンパもそうやって谷から谷へ、尾根から尾根へと移動しながら、この先生のもとに学ぶこと数年、ヴィマ・ニンティクの教えのすべてを、あますところなく、またいっさいの疑問の余地もなく、正確に学び取ったのであった。

 ロンチェンパはそうして学んだ教えを、このチンプ渓谷や自ら見いだしたカンリトゥカルの瞑想所で、長い時間をかけて完全に体得した。ゾクチェンのような教えにあっては、論理と実践は一体であり、どちらを欠いても完全な理解体得はもたらされない。彼は忍耐強くこれを自らに課した。こうした体験を通過して、ゾクチェン・ナルジョルパのロンチェンパが誕生したのである。

 彼は当時もあまり数は多くなかったゾクチェン修行者の小さなグループのなかでも、ずばぬけて特異な存在だった。全体にナルジョルパのタイプの多いこのグループには、彼ほどに仏教思想全般にわたる広範で深い知識を持っている人は少なかった。ゾクチェンの思想が多様な仏教哲学の考え方のなかで、いったいどのような立場を占めるものなのか、ゾクチェンは異端であるというような批判をどのように打ち破って、その正しさを論理的にも表現したらよいのか、同じゾクチェンの名前で呼ばれながら内部に微妙な相違点を持つさまざまなタイプのゾクチェンの教えを、どのように統一的に理解したらよいのか、またゾクチェンの内部に発生していると感じられていた間違った理解を摘発して正していくための基準を作り出すことはできないものだろうか。こうした期待が、ロンチェンパに集中していた。師であるクマララージャもまたそれを望んでいた。そして、ロンチェンパはそうした期待のすべてに、みごとに応えてみせたのだった。

 彼はクマララージャの求めに応じて、『テクチョーズ(最勝乗の宝蔵)』をはじめとする多くの理論書を書いて、ゾクチェンの体系がための作業をおこなった。その作業は、古派にも新派にも広範な仏教哲学の知識を持つ彼でなければなしえないことであった。また彼は自分の思想を明確な概念で、的確に表現する才能にもめぐまれていた。ロンチェンパはすでにゾクチェンの偉大な学者であり行者であった。しかしそれだけでは、まだロンチェンパをロンチェンパたらしめているものには足りない。彼をチベット思想史上に燦然と輝く創造的思想家となす重大な事件が、それからまもなくして起こった。場所はチンプの渓谷、そのころロンチェンパは三十歳をわずかに越えたばかりの頃であったと、記録されている。

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Posted by staff at October 31, 2004 07:03 AM