幻影休息論

「幻影休息論」は、14世紀に活躍したロンチェン・ラプジャム(1308-1364)の代表的著作である「三つの休息論」の第三巻にあたる。ロンチェンパはここで、心の作り出す幻影を八つのタイプに分類している。ここでは、第一章の「夢」について書かれた箇所を訳出・掲載する。

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幻影休息論  (sGyu-ma ngal-gso)
ロンチェン=ラプジャム (Klong-chen rab-'byams)

吉祥なる金剛薩多に帰依します。

一切のダルマが不生にして平等な本性において、
原初的叡知(イェシェ)と幻影が不二の大いなる戯れであり、
存在(心)の本性が自己生成をおこなう原初において、
なにものも現象することなく、
三身が分離しない心の状態をもって、帰依します。

一切のダルマは二様式をとってあらわれる幻影であると
まさしく完全にお語りになったが、その言葉の本質を理解するために、
顕経教典・密教教典・口訣の精髄を集めて、
それについて私自身がどのように体験をしたかを語るので、よくお聞きなさい。

いっさいの変化から自由の存在(心)の本性は巨大なる虚空であり、
空性にして清明であらゆる虚論から自由であるが、
天の太陽や月や星星のようであるその汚れなき本性から、
自然の完成状態としてあらわれる
三身の原初的叡知(イェシェ)は分離することがなく、
その状態が放つ光には存在の完全なる情報(ヨンテン)が内蔵されている。
それが自然状態にある原初の存在様式であって、
これを称して「存在の真実の基底をなす幻影」と言う。

この状態に突然にして錯乱の雲が起こり、
睡眠中に夢が発生するのと同じ機構を持って、
同時生起するマリクパ(無明)と結合して、
二元論の構造を持つ汚染された心的現象が起こるが、
これは「あらゆる場所に浸透せる無明」から発生するのであるから、
生命の六つの生存様式そのものが、
夢と同じ幻想的ななりたちを持つことになり、
そのために実在しない現象に対して
さまざまな苦や楽を体験することになる。


これより、正行の瞑想法の説明にはいる。

外界の山も谷も村も、
地・水・火・風・空の物質界の諸元素にも諸生命にも、
色・声・香・味・触の五つの対象界も、
内側の身体と感覚器官をつかさどるすべての法も、
夢そのものである、と繰り返し瞑想しなさい。
昨日以前に起こった過去のすべての法もまた
昨晩の夢と同じ意識作用の対象であり、
今日現実化するかしないかは未だ定かではない、心的現象であり、
昨日と今日は夢と同じであり、
明日と明日の晩とは、いまだ到来しない夢であり、、
失うものや得るもの、喜びや苦しみとして顕現するものも、
すべては夢と同じ構造を持って現象したものであると、はっきり把握して、
それらが実在であるという思考は、一瞬たりと瞑想してはならない。

歩く・座る・食べる・動く・対話する・口を開くなどの時も、
今は夢の中にあると確実に認識して、そこを動いてはならない。
何が心の中に現れようと、何をなし、何を思考しようと、
それらはすべて夢であるという概念を離れないことによって、
それらはすべて、実在でなく、もろく、霧のようで、はかなく、
つかの間のものであり、破損したものであると認識して、
無執着の大いなる心に向かって浄化するのである。
認識対象である幻影のあらわれが夢そのものであることを知って、
対象志向の思考を離れ、対象把握の働きを離れて、
対象世界を滅することによって、対象なるものそれ自体を超えるのである。
今ここに現出したもの、それこそが夢であると知って、
心に生ずるものを、心の外部、内部、中間領域に探索しつくして、
心の活動の本性は、
それをこれと言って具体的に取り出せるもののない知的作用であり、
広大なる虚空のような状態にあって、
記憶・思考・推論・判断・怒りなどを離れたそのリクパ(明)は、
空性・清明にして、未顕現の場に、自発的な活動を行うのである。
対象把握の心的作用がおさまることによって、対象志向性そのものもおさまり、
顛倒した世界を持つことによって発生した、対象への執着から自由になるとき、
現象対象につながりを持たない思考がしばしば現れるが、
これこそが、二元論を脱した自発する叡知(イェシェ)なのである。

このように理解して瞑想を続けるとき、
主客二元論によって顛倒して現れる対象と
心の生み出したものへの執着から解放される。
顕在化したものを対象化して、
それに執着する心の発生しない状態が経験され、
どのようなものが顕現しようと、
それははじめから空であり根源を持たないものとして現れる。
これこそが、心の原初のありようの自性なのである。
するとしだいに、他によって生ずるという性格を持つ、汚染された顕現の世界も、
それに対する執着を解かれ、原初の清浄な全体運動の本質をとりもどし、
眠りから覚めると、夢の幻影が消えているのと同様に、
ここに顕現してあるものも、
原初の根源である目覚めた正しい叡知へと、復帰するのである。

錯誤は、過去にもなく、未来にもなく、現在に顕現したものであり、
顕現したものも、顕現した瞬間からすでに、有るものとして体験されず、
実在しないものが顕現することは、習気がつくりだす錯誤であり、
その本質は原初から、すでに清浄なる夢のようなものなのである。

このように、夢の中の顕現は、 眠らずに、目を覚ましているときには現れないのに、
眠りに落ちるときに顕現して、その顕現したものには自性がないのだから、
非実在の顕現として、根源を離れているのだとして、理解しなさい。

このようにして、昼間は全霊をこめて瞑想を続け、
夜になって、いよいよ横になって眠るときには、
気持ちの良い臥所に、体の右を下にして横たわり、
ブッダがニルバーナに入られたときと同じ姿勢で横たわり、
呼吸の流れを完全に鎮めてから、眼球の動きを止め、
心臓の部分に、光を放つ小さな水晶のような「ア」の文字を観想し、
この「ア」字に満ちる微細なる運動に、意識を集中して、
これもまた夢である、と言う観念から動くことなくあることによって、
夢のような状態の中で、まばゆい光が現れる。

悪夢が現れたならば、
これは夢である、と念じれば、
恐怖は自然と消えていく。

夢の体験を通して、睡眠中に三昧を成就するために、
夢を記憶するヨーガを行いなさい。

Posted by staff at October 10, 2004 12:27 PM